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平成18年8月30日
32回目の「8・30」を迎えて(三菱重工爆破事件)
東京丸の内にある「日本郵船ビル」は、とっても風情あるビルでした。そして私にとって忘れることのできない、想い出多いビルでもあるのです。
昭和四六年四月、当時二六歳の私は、このビルの七階にあった「森謙法律事務所」に勤務して、弁護士としてのスタートをしました。新潟生まれの私にとって、「生き馬の目を抜く」東京での弁護士活動は、多忙ながらも大変に充実し、将来の夢も膨らみ、正に順風満帆の日々を送っていました。
しかし、昭和49年8月30日(金)午後12時45分、この郵船ビルの近くで、「死者8名、重軽傷者385名」という無差別テロが発生しました。そうです「三菱重工ビル爆破事件」です。この事件で亡くなられた方々や負傷された多くの方々に心より御見舞を申し上げます。かく言う私自信も、ほんの僅かの「運命の誤差」で難を逃れた一人でした。
当日私は、たまたま上京した高校時代の同窓生と丸ビルで昼食をすることにしました。郵船ビルを出て、20メートルほどの道路を渡り終えて、丸ビル側に着いた直後のことでした。「キーン」という金属音が聞こえて、私は反射的に上の方を見たのです。するとどうでしょう。ビルの谷間の空いっぱいに、何かキラキラと光るものが降ってくるのです。私には何が起きたのかさっぱりわかりません。キラキラ降ってくるのがいったい何なのか、全くわかりません。私はとっさに丸ビル一階の「ソバ屋」さんに飛び込みました。その時、瞬間的に「もし大地震で丸ビルがつぶれたら、俺は死ぬな」と思った事を、今でもはっきりと記憶しています。
大地震ではありませんでした。テロリストが三菱重工ビル入り口付近に仕掛けた時限爆弾が爆発したのです。キラキラと光りながら降ってきたのは星ではありません、4000枚といわれる窓ガラスの破片が、高さ数十メートルというビルの上層部から「矢じり」のように降ってきたのです。
8月30日の昼下がり、多くの方々が「ワイシャツ」「ノースリーブ」といった軽装で昼休みの時間を楽しんでいました。そんなときに2個の時限爆弾が爆発したのです。強烈な爆風と窓ガラスの「矢じり」によって、8名の方々が死亡し、385名の方々が負傷するという大惨事となってしまったのです。
私自身、もう数十秒早ければ、爆発地点に向かって歩いていたのですから爆風で死傷したかもしれません。また反対に、もう数十秒遅ければ、道路の真ん中でガラスの「矢じり」を受けていたかもしれません。今思い出してもぞっとします。
私は、その後食事をして事務所に戻りました。その時、森法律事務所のスタッフの皆さんの「アッ」と驚いた顔を今でも覚えています。当時は携帯電話なんかありません。食事に出たきり一時間以上も連絡がつかないので、皆さんてっきり私が事件に巻き込まれて死んでしまったと思っていたのです。元来田舎者で、のんびり屋の私です。「こういう時は、君の方から電話をするものです!」と、森所長には、こっぴどく叱られました。今でも御心配をおかけして申し訳ない事をしたと本当に反省しています。
日本郵船ビルも丸ビルも、今は全く新しくなり、当時の面影はありません。私は、今でも郵船ビルの前をよく通ります。そんな時、衆議院車輌の運転手さんに、弁護士時代の思い出や三菱重工ビルの爆破事件の事を話します。
平成8年の初当選以来、私は一貫して法務委員会に所属し、現在は法務委員会理事、党法務部会長を担当しています。三菱重工爆破事件は、私を平凡な一弁護から、テロを憎みテロと闘う闘士に変えたのです。この事件で尊い命を奪われ、負傷された方々の事を思うにつけ、私は「社会に役立つ仕事をしなければ」という強い思いに駆られるのです。
衆議院議員
漆 原 良 夫
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