平成18年8月22日

靖国問題「オレ流」通した小泉参拝

★ 小泉総理は、内外の多くの反対を押し切って本年八月十五日靖国神社を参拝されました。総理就任以来、日を変え、スタイルを変えながらも、毎年必ず靖国参拝を実行したことは、まさに「オレ流」を貫き通した総理の「美学」だったのでしょう。
 しかし、小泉総理の「オレ流」の「美学」が、日本の憲法に反するのではないか、日本の国益を損なうのではないか、という点で、国論を二分する大議論になっています。
 皆さんは、一体どのように考えておられるでしょうか。
 人に意見を聞く前に自分の意見を言うことが礼儀だと思いますので、私の考えを申し上げます。理由は、あとで話しますが、結論として私は総理大臣の靖国神社参拝に反対です。
ところで小泉総理の「八・一五」参拝は、昭和六十年八月十五日の中曽根参拝以来、実に二十一年振りのことだそうです。 この「八・一五」中曽根参拝も国内外で賛否両論の大議論になりました。結局、中曽根総理は、アジア各国からの強い批判を考慮して、以降の靖国参拝を中止したのです。
 それでは、小泉総理がどんな思いで靖国に参拝を実行したのか、その説明を聞いて見たいと思います。

@ 「靖国神社参拝は、心ならずも戦争に行って亡くなった人の犠牲の上に今日の平和があるという気持ちを込めて、戦没者に敬意と感謝を表すとともに政治家として二度と戦争を起こしてはならないとの誓いを込めてするものであって、一体それのどこが悪いのか」と言われてます。「一体それのどこが悪いのか」という言い方は、喧嘩上手と言われる小泉総理一流の論理のスリ替えです。
「戦没者に対する追悼」と「不戦の誓い」自体を誰も悪いとは言っていないのです。日本国民ならばあたりまえのことですし、私も毎年武道館で行われる「全国戦没者追悼式」に参加しています。問題は、なぜそれが靖国神社なのかということです。総理には、ここを国民の皆様に分かりやすく説明してほしいと思います。
 総理は、靖国参拝の理由として「戦没者の対する追悼」と「不戦の誓い」を挙げられていますが、武道館で行われた「全国戦没者追悼式」の式辞でも、全く同じ事を述べられているんです。ということは、「戦没者に対する追悼」と「不戦の誓い」は、何も、靖国神社でなくても出来るんだということになります。そうだとすると、小泉総理には、靖国神社を参拝する特別の理由を説明する必要があると思われますが、いかがでしょうか。

A 総理は、靖国参拝反対論に対して「突き詰めれば中国、韓国が不快に思う事はやるなということだ」と反論をしました。
 私は、一国の総理の発言としては、とても感情的で乱暴な発言だと思います。
 世論調査では、六割の国民が総理の参拝に反対し、その数は、賛成の二倍にも達している事を総理はどのように考えておられるのでしょうか。更に、裁判所も総理の靖国参拝に反対していることを皆さん御存知でしょうか。
 大阪高等裁判所は、小泉総理の平成十三年、十四年、十五年の各靖国参拝について「本件各参拝は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たる」(H13・9・30判決)と判断し、なんと小泉総理の靖国参拝は「憲法違反だ!」と言っているのですよ。
 総理には、自分に反対するこれらの見解はすべて中国や韓国に媚びへつらう勢力に聞こえるのでしょうか。
 小泉参拝の前日(十四日)、TVで女子小学生の総理宛のメールが紹介されていました。その内容は、「私達でも、あまり喧嘩しすぎると元に戻らなくなってしまいます。靖国へ行かないで下さい」というものだったと記憶しています。
 小泉総理、小学生でも近隣友好を心配しているんですよ。総理は、この女子小学生にどのようにお答えなされるのでしょうか。

B 靖国参拝と政教分離の問題について総理は「憲法一九条の『思想及び良心の自由は、これを犯してはならない』をどう考えますか。まさに心の問題でしょう」と説明しておられます。
 ここにも小泉総理一流の論点のスリ替えが見られます。総理の靖国がなぜ憲法二〇条三項の「政教分離の原則」に違反しないのか、何も説明されていません。学生がテストの時に「心の問題です」などと解答したら、おそらく0点でしょうね。
 小泉総理は、ご自身の靖国参拝が「憲法違反」と判断された初の総理です。
 総理大臣の行為が憲法違反と判断されることは、国民にとっても不名誉なことです。総理には「心の問題だ」などと論点をスリ替えないで正々堂々、真正面から大阪高等裁判所の判決内容を覆すに足りる精緻な反論を展開して頂きたいと思います。

C なぜ八月十五日なのか、ということについて総理は「いつ参拝に行っても、何とか争点にしよう、混乱させよう、騒ぎにしよう、国際問題にしようとする勢力がある。いけないと言ったって、日本は言論の自由が認められているから、どうにもならない。だから今日が適切と判断した」と説明されています。
「なぜ八月十五日なのか」、全く説明していませんね。反対意見でも理を尽くして説得しようという姿勢が全く見られません。「もう面倒臭い」と言わんばかりの感情むき出しで問答無用の切り捨て論法ですね。
 昭和六十一年八月十四日に、後藤田正晴内閣官房長官は、中曽根総理が靖国神社参拝を見送った理由としてこのように説明されています。「靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は近隣諸国の国民の間に批判を生み、過去の戦争への反省と平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある。政府としては、首相の公式参拝は差し控える」とずいぶんと丁寧に説明されていますね。近隣諸国の状況は、昭和六十一年代に較べて、どうでしょうか。ずっと悪化していますね。小泉総理が「八・一五靖国参拝」を実行するにあたっては、この後藤田発言を超える冷静で合理的な理由を国民に説明する責任があると思います。
 そういえば、小泉総理もかつては「八月十五日」に参拝しない理由を冷静に述べておられた時期もあったんです。〇一年八月十三日の第一回目の参拝の際「終戦記念日における私の靖国参拝が、私の意図とは異なり、国内外の人々に対し、戦争を排し平和を重んずるという我が国の基本的考え方に疑念を抱かせかねないということであるならば、それは決して私の望む所ではありません」と説明されているんですね。今回の説明と比べると同一人物とは思えないくらいの落差がありますが、その原因は一体なんでしょうか。

(総理の靖国参拝は反対です) 
・ 公明党の神崎代表は「総理大臣、官房長官、外務大臣の靖国参拝は反対」と明確に述べています。私も全く同感です。その理由は、憲法上の問題と国益の問題です。
 憲法上の問題の第一は、憲法二〇条三項の政教分離の原則に違反する懸念があるからです。このことは先に紹介した大阪高等裁判所の判決を見れば明白です。
 信教の自由は、思想・良心の自由、表現の自由の源であり民主主義の前提となる根源的な自由権であると考えています。
 憲法上の問題の第二は、三権分立の精神を尊重しなければならないという事です。憲法は、立法・行政・司法が各々「暴走」しないために、三権を分立し、相互にチェック機能を持たせる事にしました。三権の相互の関係は省きますが、立法府(国会)と行政府(内閣)が憲法に違反をして暴走することを防ぐため、司法(裁判所)に「合憲性審査権」を与えたのです。先に述べた大阪高等裁判所は、この「合憲性審査権」に基動に当たる」として憲法に違反する行為だと判断したのです。小泉総理は「お目付役」に叱られたのですから、本来ならば、最高裁判所の最終判断が出るまでは、靖国参拝を慎まなくてはなりません。しかし総理は、大阪高等裁判所も「抵抗勢力」とばかり、全く無視して今回の「八・一五」参拝に突っ走ってしまったのです。このことは、小泉総理が三権分立という憲法の精神を全く理解されていない事の証左だと思います。
 余談になりますが、私は、個人的意見として、立法府及び行政府の「暴走」を本当に止めるためには「憲法裁判所」を設置する以外にはないと考えていますが、このことは別の機会に述べたいと思います。

・  国益の問題、特に中国や韓国を含む東北アジア外交をどうするのか。事態は深刻です。
 靖国参拝がトゲになっているのであれば、政治家としては、そのトゲを抜く努力をする事は当然の事だと思います。日中、日韓の間には、ガス油田や尖閣諸島、竹島など解決困難な問題が山積しています。又、北朝鮮による核ミサイル開発の防止・テポドン等のミサイル発射問題など、安全保障の問題もあります。これらの問題は、日・中・韓の首脳による緊密にして率直な連携がなければ絶対に解決されません。
 今回の総理の靖国参拝により、中国及び韓国は、いよいよかたくなになる事でしょう。
 「政冷経熱」などと言われていますが、このままの状態が続いたら、いつ「経冷」になるかわかりません。そして私は何よりも、日中・日韓の国民の間に「後戻りの出来ない不信感」が熟成される事を一番おそれているのです。「退く事は進む事より更に勇気のいる事だ」とよく言われます。私は、次の総理になられる方に、この難題を解決するために、靖国問題について、退く必要はないが「一歩立ち停まる勇気」を是非とも要求したいのです。

(国民の追悼・平和記念施設の設立)
・ 自由民主党の総裁選を期に、同党内の各方面から「靖国のトゲ」を抜く提案がなされています。A級戦犯分祀案、靖国神社非宗教団体化案などでありますが、私はこれらと根本的に発想を異にした無宗教の新たな「国立の追悼・平和記念施設」を設立するべきだと考えています。
 前二案は、何とか現在の靖国神社をそのまま参拝の対象にしたいという発想であるに対し、後者の案は、追悼・平和記念のために靖国神社とは別の新しい施設を作るということで、発想の仕方に根本的な違いがあります。
 それでは、それぞれの案について検討をしてみたいと思います。
・ 靖国神社からA級戦犯を分祀するという案について。
この案については、そもそも靖国神社側が「一旦合祀したものを分祀するなどということは教義上不可能」といっています。靖国神社側が不可能といっている事柄について、国家がこれを強制することは、これこそ信教の自由を侵害することになります。
 したがって、この案は、靖国神社側が分祀を「ウン」と言わなければ実現できないのです。もし靖国神社が「ウン」と言ったとしても、一宗教団体である靖国神社に天皇や総理大臣が参拝しても良いのかという憲法二十条三項の「政教分離の原則」が問題になります。たとえA級戦犯が分祀されたとしても、一宗教団体である靖国神社に天皇や総理大臣が参拝するということは、すでに大阪高等裁判所の判決にも指摘されている通り「憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動」に該当する可能性が非常に強いと思っています。

・  「政教分離違反などという憲法上の難しい問題が起きるのは、そもそも靖国神社が宗教団体だからだ。それならいっそのこと靖国神社を非宗教団体にしてしまえ」というのが「靖国神社非宗教団体化案」です。とっても乱暴で荒唐無稽な話のように聞こえますが、実は、こういう学説が明治憲法時代に堂々と唱えられていました。また更に驚くべきことに昭和四十九年五月二十五日、なんと衆議院を賛成多数で可決・通過しているのです(但し参議院で廃案)。
 この法案(靖国神社法案という名前です)を見ると驚きます。名称は「靖国神社」、戦没者の決定や神社の役員の任命・解任権者は「内閣総理大臣」、経費は「国の予算」となっています。それでは憲法二〇条(信教の自由)に真っ向から違反するではないかと思いながら条文を読んでいると「靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない」と書いてあるのです。要するに靖国神社は宗教団体ではないのだから、どんなに国が関与しようが援助しようが、憲法二〇条の問題は起きないんだということなんです。  
 これが「靖国神社非宗教団体化案」の中身です。
  明治憲法時代(靖国神社は国教的地位を与えられていました)の話なら、まだ理解できますが、昭和四十九年によくもこんな法案が衆議院で可決されたものだと本当に私は驚いています。どんな議論がなされたのか、一度議事録をゆっくり読んでみたいと思っています。
 明治憲法時代、このような学説に対して「真黒な烏を指して真白なサギと言うが如し」と厳しく反論をした学者がおられたと学生時代に本で読んだことを記憶しています。歴史は繰り返すといいますが、平成の時代にこのような「珍説」にお目にかかろうとは夢想だにもしていませんでした。
 そもそもこの法案は、靖国神社という宗教団体に対して、国家権力をもってその宗教性を剥奪するというものであって、これにすぐる宗教弾圧はないというべきであります。
 私は平成の国会議員の良識にかけて、このような法案を成立させてはならないと思っています。

・ 私は誰でもわだかまりなく戦没者を追悼し、平和を祈念するためには、無宗教の「国立追悼・平和記念施設」をあらたに設立する以外に方法はないと考えています。
 毎年、終戦記念日である八月十五日、天皇陛下の御臨席をあおぎ、総理大臣・閣僚を始め各界を代表する方々の御出席のもと、戦没者に追悼の誠を捧げるとともに、全世界に向かって不戦の誓いを新たにして平和を祈念する、そういう施設を作りたいと願っています。

                          衆議院議員