令和元年5月21日
【遥かなる山河
 
― 志田邦男新潟県議の勇退に思う ―

 

○「始めまして、衆議院議員候補の漆原です」「始めまして、新潟県議の志田邦男です」・・こんな会話をしたのは、志田さんが県会に初当選された平成7年の夏頃だったと記憶しています。私と志田さんとの「政治家としての2人3脚」は、この時から始まります。早いものですね、あれから24年が経過したんですね。
 この24年間は、「公明党」にとっても、また「新潟県公明党」にとっても、大変大きな24年間だったと思うのです。今日は、志田さんと二人でコーヒーでも飲みながら、この24年間の出来事を振り返って見たいと思います。

○公明党全体に関わる大きな出来事は、「自公連立」、「野党転落」、「平和安全法制」の3つだったと思います。

<自公連立政権>
・1999年(平成11年)10月、自民・公明の連立政権が誕生しました。我が党は、昭和39年の結党以来、非自民・反自民の立場で来ましたから、内外に渡って反響は大変なものでした。

・私は、党員・支持者の皆さんの説得のために、3ヶ月で100回以上の会合を開き討論をしました。志田さんも大変なご苦労をされたと聞いています。
 世論の多くは、「公明党が与党に入って一体何をしたいんだ」「野党で十分だ」「支持団体の利益のために変なことをするんではないか」などなど、散々でしたね。
 また党員・支持者の皆さんも「自民党に飲み込まれる」「社会党のようになって消滅してしまう」「私達が作った公明党を潰す気か」などと、容易に納得をしていただけません。

・今年で自公連立20年になります。多くの人から「与党に公明党がいるから安心だ」「自民党の暴走にブレーキをかけられるのは公明党しかいない」「公明党が与党にいればこそ国民目線の政治が実現できる」等々、暖かい声が寄せられています。
 当時から考えると、涙の出るほど嬉しい言葉ですね。一重に、党員・支持者の皆さんの粘り強いご支援と地方議員と国会議員の緊密な連携の賜物と思っています。

<野党に転落>
・2009年(平成21年)8月の総選挙に大敗し、野党に転落しました。太田代表、北側幹事長、冬柴前幹事長始め、小選挙区候補全滅と言う惨敗です。真っ暗です。

・当時の自民党は、政権の末期症状でした。「消えた年金問題」で国民の不信を買う一方、「事務所費問題」で次から次へと大臣が辞職に追い込まれます。農水大臣の「絆創膏事件」や「何とか還元水大臣の自殺」事件も政権には大きな痛手でした。当時私は、国会対策委員長でしたが、目を覆いたくなる思いでした。国民と直に接する志田さんたち地方議員の皆さんのご苦労は、本当に大変だったと思います。

・一方当時の民主党は、ポピュリズムの最たるものでした。偽りのマニフェストを発表し、「月額7万円の最低保証年金の支給」、「月2万6000円の子供手当ての支給」、「事業仕分けで11兆円のムダの捻出」など、国民受けする政策をどんどん打ち出します。
 私達は、マニフェストの誤りを指摘し実現の可能性の無いことを訴えるのですが、メディアは「平成の政権交代」と囃子立て、国民も「一度民主党にやらせてみたら」と言うことで、私達の主張に耳を貸そうとしませんでした。
 民主党の鳩山代表は選挙期間中こんなことを言っておられました。「今回の選挙は、大変楽です。政策なんか言う必要はありません。『政権交代』の4文字を言うだけで皆さん『ワー!』と盛り上がるんです!」。
 そして政権交代です。

・連立与党はありますが、「野党連立」なんてありません。自公の連立は、自然解消となりました。
 ここで、今後公明党はどうするかと言う問題が起こります。公明党は今後、自民党と連携するのか、民主党と連携するのかと言う問題です。
 メディアや世論の多くは、公明党は政策的には民主党と近いので、民主党と連携したほうが良いというものでした。しかし、私達は、自民との連携を選びました。そして、民主党のマニフェストの偽りを予算委員会で立証し、3年3ヵ月後に政権を奪還したのです。この間、筆舌に尽くせないほど辛い思いをしました。本当に、「風雪に耐えてよく頑張った3年3ヶ月」だったと思います。

・2017年10月、民主党の流れを汲む当時の民進党は、路線対立を乗り越えられず4分5裂しました。
 無所属議員になった民主党元代表の岡田克也氏が「自民党を出て20年、何のために自民党を出たか分からない」と呟いておられた姿が忘れられません。
 もしあの時、公明党が民主党と連携していたなら、今頃私達は「裸の公明党」として政界を漂流していたかもしれません。「あの時の判断は、間違っていなかった」と心から安堵しています。

<平和安全法制>
・2012年政権奪還後、自公の連立は最大の危機を迎えます。憲法第9条の解釈上集団的自衛権の行使は是か非かという論争です。

・安倍総理は、集団的自衛権の行使容認を目論み、総理の私的諮問機関として「安保法制懇」を立ち上げます。そして「安保法制懇」は、翌年の5月に「現行憲法上集団的自衛権の行使は許される」との報告書を総理に提出します。
・公明党は、現行憲法の解釈上集団的自衛権の行使は許されず、あくまでも憲法第9条の平和主義を守り、専守防衛に徹すべきだと考えています。
 そこで公明党は、個別的自衛権の範疇で解決するべきだと考え「武力行使の新3要件」と言う案を提案しました。

・ここで安倍総理は、集団的自衛権の行使容認という安保法制懇の提案を排斥し、公明党の「武力行使の新3要件」案を採用します。最終的には、安倍総理の政治判断でこの問題は決着しました。

・公明党の平和主義が、自公連立の中で大きな力を発揮したと自負しています。「公明党が与党にいて本当に良かった」と心から思っています。

○新潟県的には、なんと言っても2004年(H16年)10月23日の中越地震と2007年(H19年)7月16日の中越沖地震だったと思います。

・志田代表が、就任間もない泉田新潟県知事を車に乗せて被災地を案内していたこと、防災服姿で党大会に出席し復旧・復興の要望を強く訴えていたことなど、忘れられません。

・志田さんの手配で、冬柴幹事長を団長とする公明党議員団が、国会議員としては初めて、山古志の被災地を視察できたことも鮮明に記憶しています。

・また、中越沖地震では、柏崎市議会の真貝議員や若井議員の意見が、「被災者生活再建支援法」の改正に大きく反映されました。

・この大震災に対して、志田代表を先頭にして新潟県公明党議員が結束して復旧・復興のために全力で戦われた事に心より感謝いたします。
 
○その他の出来事
・志田さんの掉尾を飾る統一地方選の戦い、全員当選!お見事でした。殊に新潟県議会、長岡選挙区全国1番、中央区全国2番の得票率。本当におめでとうございました。

・国対委員長の8年間は、土・日もなかなか新潟に戻れない日々が続きました。志田さんから、「地元は心配ない、国会で存分に活動してください」と言われ本当に助かりました。有難うございました。

・志田さん、24年間と言ってもあっという間でしたね。前に述べた出来事の他にも色んな事がありました。東日本大震災の発生、金融危機、米国同時多発テロ、自衛隊のイラク派遣、北朝鮮による拉致問題や弾道ミサイルの発射、中国の尖閣問題等々。

・今、立ち止まって改めて後ろを振り返ってみると、沢山の山河が連なっています。迷わず、過たず、良くここまで乗り越えてきたものだと思いますね。
・「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り」とあります。何も力の無い私達(私と一緒にして失礼)ですが、公明党という「驥尾」に必死にしがみついて来ただけで、こんなに大きな仕事をさせて頂きました。議員冥利に尽きますね。これからも、後輩のために頑張ってゆきましょう。 




令和元年5月21日

公明党 顧問  漆原 良夫