平成13年3月29日 (No.14)


ロシア訪問を終えて
 
森総理のロシア・イルクーツク訪問の同行を終えて25日、深夜に帰国致しました。

 森総理とプーチン大統領は、日ロ平和条約について、「イルクーツク声明」を発表しました。今回の声明は、1956年の日ソ共同声明の法的有効性が確認され、今後の平和条約交渉の出発点となりました。
 日ソ共同声明には、平和条約が締結された後に、「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と明確に記載されています。
 しかし、日米安保条約の締結に反発した旧ソ連は、一方的に、この日ソ共同声明の無効を通告してきたのでした。

 今回の、「イルクーツク声明」は、北方四島一括返還にむけての大きなステップになるものと確信しています。
 私は、公明党の議員として、歴史的瞬間に立ち合えたことを、心より感謝申し上げます。


森総理とイルクーツクの関係とプーチン大統領の配慮
 森総理のお父様のお墓がイルクーツクの郊外のシェレホフ市にあります。このお墓は、シェレホフ市と交流の深かったお父様のために、市民の皆さんが募金をして造ったそうです。
 現在、この墓地には森総理のお父様のご遺骨が分骨されており、市民の礼拝が今でも絶えないとのことです。

 プーチン大統領は、声明の発行後、森総理と共に墓参をされました。たくさんの市民の皆さんが、我が町に大統領と森総理が来られるということで、マイナス15度という気温にもかかわらず到着を待っておられました。
 40年前に、日ロ友好のために尽くされた、お父様の墓前に森総理の親孝行(墓参)を実現させたプーチン大統領の心温まる気配りを感じました。


イルクーツクと日ロ交流の歴史について調べてみました。
 1729年に薩摩の難破船がカムチャッカに流れ着き、ソウザ(宗左)とゴンザ(権左)の2人が当時の首都に送られましたが、このうち当時11歳だった権左は学士院司書ボグダーノフと協力して世界初の露和辞書や日本語の文法書を著しました。
 1736年に宗左、権左を教師として開設された日本語学校は、1750年にイルクーツクに移されました。

 1783年に神戸に向かう途中に難破し、ロシアに漂着した大黒屋光太夫は、1789年にイルクーツクに滞留しました。この地で、エカテリーナ2世に謁見後、帰国を許され、日本との通好を目指すラックスマンやシェレホフと共に帰国しました。光太夫の生涯は、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」のモデルです。