記
― 東 順治か長谷川平蔵か ―
〇「やー、ご苦労さん、ご苦労さん」と苦み走った笑顔で労をねぎらってくれるその人は、公明党第18代国会対策委員長、東 順治さんです。
人情味豊かで、漢気のある東委員長の人柄は、俳優中村吉右衛門主演「火付け盗賊改メ方の長官、長谷川平蔵」を彷彿とさせます。
〇政府提出法案の成立を目的とした国対は、委員長の他10名の委員で構成された、上意下達の集団です。
衆議院の委員会は25委員会、参議院の委員会は30委員会です。通常国会では、約120本の法案が、国会に提出され審議されます。法案の中には、3月中に成立させなければならない予算案や野党が大反対している激突法案もあります。これを、整然と審議して成立させるのが国対の役割です。
そうです。日本の国会を動かしているのは、我々国対です。そしてその、最高責任者が東委員長なのです!
〇したがって、国対委員長の指示、命令は絶対です。国対が「上意下達の集団」とか「闘う武闘集団」言われる所以です。
東国対委員長と我々委員は、火付け盗賊改メ方の長官長谷川平蔵とその同心達と同じく「熱い絆」で結ばれているのです。時によっては、委員長の命令一下、実力行使(強行採決)まで行うのですから。
私は、東委員長の下で4年間、国対委員としてご一緒させて頂きました。どんなに苦しくとも、委員長に「うるさん!良くやった、ご苦労さん!」と言われるといっぺんに疲れが吹き飛んでしまうのは、私だけではありません。
― 「西の東」と「東の東」 ―
〇私が初当選した頃、衆議院公明党には「東」氏が二人おられました。九州の東(ひがし)順治氏と東京の東(あずま)祥三氏です。
最初は、混乱しましたが、先輩に教わりました。「西の東(ひがし)」と「東の東(あずま)」と覚えれば良いと。
― 本場の「無法松の一生」 ―
〇国会が無事閉会した後、自民、公明国対の「慰労会」に連れて行ってもらったことが在ります。勿論、無礼講の酒席です。暫くすると、お国自慢の“歌”が始まり、てんやわんやの大騒ぎです。
東委員長の「無法松の一生」!ビックリです。力まず、唸らず、軽妙に・・それでいて、こぶしはしっかりきいているのです。「流石、本場の無法松!」とみんな、シーンとして聞き入っていました。
― 醜の御楯 ―
〇私の2023.7.1付の日記に「『醜の御楯』に感銘。東氏と思いを共有」とあります。
「醜(しこ)の御楯(みたて)」と読みます。卑しい身ながら天皇を守る盾となる者という意味です。
万葉集の「今日よりは、顧みなくて大君の、醜の御楯と いでたつわれは」という防人の詠んだ歌です。
私は、九州の東さんに電話をして、感想を述べあいました。東さんからは「公明党もまた、大衆のための政党として、主権者たる国民の楯となって頑張ろう」と激励されたことを今でも鮮明に覚えています。
そして、この時の会話が、東さんとの最後の会話となったのです。東委員長とは、もっともっと公明党の未来を語りたかったし、もっともっと酒も飲みたかったし、教えても頂きたかったです。合掌。
<東国対委員長のこと> 元公明党衆議院議員 西 博義
東順治さんは、私にはまさしく九州男児という感じの方で、直情径行型の人でした。それでいて、周囲の人は彼の情熱的な語り口に納得し、彼の方針にみんなが団結していきました。
相手方との交渉も、ズバリ単刀直入に切り込んで、相手方を納得させることを、そばで見ていて感心させられました。
東さんに「そうだろう、西くん」と肩を叩かれたときの、武骨な手の感触がよみがえります。
<東順治さんを偲んで> 元公明党衆議院議員 山名靖英
私は、平成5年7月の衆議院選挙において初当選しました。当時は、中選挙区制で京都2区より出馬しました。定数5で3位当選。
一年生議員として緊張して臨んだ国会は、大きく威厳のある場でした。何もわからない中、国会運営のシステムや、他党との交渉など数々のことを教えてくれたのが「東順治氏」でした。温厚な人柄で、誰とでも気軽に会話している姿がありました。自民党はじめ他党とも胸襟を開いて話し合う姿勢は、大きな信頼を集めていきました。
適材適所で役割分担を決め、委員会での質問など常に関心を持って指示されていました。委員会が開催されると、そっと後ろで傍聴したり、院内TVで私たちの質問や政府答弁を視聴し、後日アドバイスするなど、後輩の育成に取り組んでいる姿に感銘したものです。
政治は自己主張だけでは、決まるものも決まりません。国民の側に立ち、どう自民党や野党双方を調整するかが大事です。その難しい調整役を長年にわたって実行してきたのが東順治さんでした。まさに名将でした。
その姿勢を受け継ぎ、他党の信頼を勝ち取ってきたのが、漆原良夫国対委員長でした。8年間、衆議院国対委員長として活躍されてきました。私と同じ1944年生まれです。二階俊博元自民党幹事長は、「うるさんは信用できる。立派だ!」と高い評価をされていました。私と同じ京都出身の野中広務氏も、「うるさんと付き合えば公明党の良さが」分かると言っていました。
衆参とも、少数与党となった政権だが、腹を割って話し合い、お互いの信頼関係を大事に育て、何よりも国民の幸せを築く政治の実現に全力で向って欲しいと願っている。
<東 順治さんの事> 元公明党衆議院議員 石田祝稔
我が友、東順治さんが長逝して間もなく2年、3回忌を迎える事となる。惜しみても余りある早逝であった。東さんは私より5歳年長であり、親しくさせて頂いてより30数年のお付き合いであった。
共に平成2年の総選挙で初当選。東さんは福岡、私は高知が選挙区であった。平成5年の総選挙で揃って2期目の当選を果たし、羽田政権で共に政務次官に就任した。東さんは防衛政務次官、私は大蔵政務次官でした。その時のエピソードです。東さんは戦車の操縦桿をにぎり思い切りアクセルを踏んでスピードを出したら、“余りとばさないでください”と言われたそうです。東さんらしいなぁと笑い合ったものです。
よく話をしましたが、談たまたま名前の話になって、私が順治という名前の謂れを聞くと、中国清王朝の皇帝の名前だと言うではありませんか。どうもお父上が中国の多分満州国で役人をなさっていてその名前をつけた、と東さんは言っていました。名前に負けず立派な人生を送られたと思います。
現役引退後、私も引退した後、愛知の同期初当選の平田米男さんとお互い夫婦で高知に来る予定でしたが、東さんからドクターストップで行けなくなったと電話をもらいました。調子が良くなったら来てください、待っていますとのやりとりが声を聞いた最後になりました。誠に残念痛恨の極みです。
完