令和5年5月15日
第7ノ巻(自公連立の礎)】
 
今ハ昔、逆風ノ中、自公ノ連立ヲ説ク者アリケリ



〇第6ノ巻(森喜朗総理大臣編)で、連立前夜の「経済状況」や「政治状況」の下、自公が協力して日本発の金融危機を回避したことを契機に、政治の安定のために自公連立政権の発足へと進んでゆく経過を説明しました。
 しかし、一口に「政治の安定のために」とは言うものの、自民党も公明党も党員・支持者の皆様のご理解を頂くには相当な苦労を致しました。
 世論の評価も含めて、改めて当時を振り返ってみたいと思います。


〇世論の評価

・公明党が与党になって一体何がやりたいのだ。

・創価学会の利益のために変なことをするのでないか。

・政教一致の問題がある。

・公明党は、政府の批判勢力として野党であることに存在意義がある。


〇自民党側の状況

自民党内部でどのような議論がなされていたのか、本当のところ分かりません。しかし、私が、実際に経験した2例から当時の雰囲気が想像出来ます。  

・<涙で書いた“公明党”>
 自公連立後、初めての総選挙が2000年6月25日に行われました。選挙人は、選挙区と比例区の2票を持ち、選挙区には個人名を、比例区には政党名のみ(個人名を記載すると無効になります)を記載して投票します。
 私は、北陸信越ブロック比例区候補ですから、「公明党」と、政党名を記載してもらうことになります。投票日、森元総理の後援会幹部の方に言われました。「漆原さん、ちゃんと入れてきましたよ!」、「生まれて初めて『公明党』と書きました。涙が出ました」と言うのです。
 幹部の方は更に続けます。「衆議院比例区の投票方法を、候補者個人名の投票も出来るように改正してほしい」と言うのです。そしてその理由として「漆原さん、この地方では、公明党イコール創価学会なのです。公明党の支援をお願いすると『お前、何時から創価学会に入ったのだ!』と必ず言われます。それが、何とも辛いのです」と。私は、このご苦労を聞いて、ただただ心から感謝するしかありませんでした。

・<公明党には、“小骨を与えても大骨は与えない”>
 自民党の中でも、政策に通じた論客であり、実力者でもあった衆議院議員の言葉です。
 小骨とは、福祉や文教政策のことであり、大骨とは、税制や国防といった国家の基本政策に関わることを意味するのでしょう。「公明党には、福祉や文教政策で多少の譲歩はしても良いが、国の根幹にかかわる政策はこれまで通り自民党が決める」、「公明党、何するものぞ!」と、長い間この国を支えてきた自民党議員の矜持と驕りを感じました。連立を組み彼らと伍して行くためには、しっかり勉強をして実力をつけなければと密かに決意も致しました。
 なお、後日のことになりますが、平和安全法制や軽減税制の導入に当たっては、公明党らしい論理と筋を貫き、大きな成果を勝ち取ったこと、第4ノ巻(安倍晋三総理大臣編)に記述した通りです。


〇公明党党員・支持者の反応

 自公連立に関する公明党の党員・支持者の反応は、とても厳しいものでした。その内容は、概略次の3点に要約されます。

・公明党は、1964年(S39年)の結党以来、非自民の立場で戦ってきた。その自民と急に連立と言われても理解できない。日本の政治を悪くしたのは、自民党ではないか。その悪政を糺すために公明党が政界に進出したのではなかったのか。権力に迎合するようなことは、公明党としての存在意義と一貫性を欠くことになる。

・社会党のように自民党に飲み込まれ、消滅してしまう。自民党は、狡猾だ。社会党のように自民党に飲み込まれ利用された揚げ句、最後は見捨てられ消滅してしまうのではないか。
 *社会党は、1945年の結党以来「非武装中立路線」を執り、「自衛隊憲法違反」、「安保廃棄」の主張を貫いてきた。ところが、1994年、自社さ連立政権(村山内閣)の発足とともに突然「自衛隊合憲」「安保堅持」に変更。その後、1996年1月19日社会党解散に至る。

・四月会の傷が癒えていない。自社さ内閣は、別名「四月会内閣」と言われ創価学会・公明党の弾圧を企てました。創価学会の皆さんや党員・支持者がどれほど辛く、悔しい気持ちで「四月会」参加の自民党議員と戦ってきたか、忘れることが出来ない。(なお、四月会については、「時事放弾・第11弾・不朽の名作冬柴小冊子」で触れています。)


〇疑いの眼差しから信頼の眼差しへ

 私は、北陸信越の党員・支持者の皆さんのご理解を得るために4か月間で大小100回以上の説明会を開きました。しかし、皆様の公明党に対する熱い思いと自民党に対する不信感は、強烈でした。冷静な討論よりも感情論優先の堂々巡りです。

 この日も、同じでした。古参の党員は「公明党は、自分達が苦労して作り上げた政党だ。若い議員の甘言に乗せられて、揚げ句の果てに社会党のように潰される!」、「立党精神を失った公明党には未練はない。自分は党員をやめる」と言い出す始末。「もう収拾がつかない、この会合は失敗か」と思った時、これまで会場の片隅で黙って聞いていた創価学会幹部の手が上がりました。

 彼は、「公明党の一支持者として意見を言います。公明党の行く末を心配する会員の気持ちもよく分かります。また、与党として公明党の理念である恒久平和や社会福祉の充実を実現したいという漆原さんの気持ちもよく理解できます」と前置きし、「皆さん、漆原さんのご両親を知っているでしょう。貧乏の中一生懸命に学会活動に励み漆原さんを大学に進学させ、弁護士にしたのです。漆原さんもまた両親の背中を見て育ち、新聞配達をしながら司法試験に合格し、弱い人達の味方になろうと決意して弁護士になり、公明党の政治家になったのです。漆原さんは、私達の仲間であり、同志です。こんな漆原さんが、皆さんを不幸にするような話をするわけがありません。皆さん、私たちの仲間を信頼してあげようじゃないですか。漆原さんの話をしっかり、冷静に聞いてあげようじゃありませんか」と続けてくれたのです。

 この一言は、とても大きなものでした。会場の雰囲気が、疑いの眼差しから信頼の眼差しに一変したのです。
 私を、「同志・仲間」と言って頂いたことに深い感銘を受けました。必ずや、皆さんの信頼と期待にお応えできる議員に成長しようと、強く決意を致しました。


〇連立の礎

 自民党と公明党の連立政権は、今年で24年になります。
 あれほど自民党との連立に難色を示した公明党の党員・支持者の皆さんが、一体なぜ連立に理解を示し支持して下さったのでしょうか。

 それは、公明党創立者である創価学会池田大作名誉会長が示された「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆の中に入りきって、大衆の中に死んでいく」と言う公明党の立党精神によるものだと思います。

 政治は、大企業や全国的な労働組合のために在るのではなく、無名の大衆・国民のために在ります。党員・支持者の皆さんは、自民党との連立には懸念は残るものの、最終的には、創立者の示された立党精神を実現しようと戦っている公明党を信頼し、支援をして下さったのです。公明党の連立参加によって政治の「数の安定」のみならず「質の安定」にも大いに貢献したことは、第3ノ巻(塩崎恭久元厚労大臣編)で記述した通りです。

 しかし、近年、ロシアによるウクライナ侵攻、中国の覇権主義の横行、北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威などにより、「日本の安全保障やエネルギー政策は、これまで通りで良いのか」と言う新たな課題に直面しています。
 信頼の基礎は、丁寧な説明と納得です。日本が直面する諸課題に十二分な説明責任を尽くし、国民とりわけ公明党を信頼して頂いた党員・支持者の皆さんの信頼と期待にお応えすることは、公明党議員の責務だと思います。

以上

令和5年5月15日

元公明党国会対策対委員長
弁護士 漆原 良夫