令和5年2月25日
第6ノ巻(森喜朗総理大臣編)】
 
今ハ昔、加賀の国ニ森喜朗トイウ人アリケリ



〇森喜朗元総理は、私共後輩に自公連立に至る経緯やご苦労を折に触れて何回も話して下さいました。
 自公連立24年、今や連立当時を知る議員の方が少数派になってしまいました。森総理の話を思い起こしながら、自公連立の経過をたどってみたいと思います。

― 連立前夜の日本経済 ―  
〇今から20数年前頃(1997年〜1998年)の日本経済は、大変な状況でありました。
「銀行は、潰れない、潰さない」という安全神話が崩壊して、以下の通り、各地で銀行や証券会社が破綻をしたのです。
・1997.11.3・・三洋証券破綻
・1997.11.17・・北海道拓殖銀行破綻
・1997.11.24・・山一証券破綻
・1998.秋・・・・日本長期信用銀行破綻
             日本債券信用銀行破綻
 預金者は、銀行が破綻する前に自分の預金額を取り戻そうと取り付け騒ぎを起こし、銀行の前は払い戻しを求める人達で長蛇の列。他方銀行側は、資金を確保しようと強引な「貸し渋り・貸しはがし」で世情は騒然。正に「日本発の金融危機」寸前の状況でした。

― 金融危機回避のために講ずべき施策 ―
〇政府は、金融危機回避のために講じなければならない施策として、次の施策を用意していました。

・預金全額保護のための公的資金の投入(先ず、何よりも国民の預金債権を全額保護しなければなりません。そのための公的資金の投入です)。
・大手銀行に対する公的資金の投入(銀行の破綻を防ぐための資金投入です)。
・銀行の一時国有化(同上)。 
・公的資金による健全銀行からの不良債権の購入(同上)。

〇当時、銀行に対する「公的資金の投入」は、税金による銀行救済ということで国民の強い抵抗が予想されました。従って、これらの施策を迅速かつ確実に実現するためには、安定した強い政治の力が必要とされていたのです。

― 当時の政治状況 ―
〇ところが、当時の政治状況は「55年体制の終焉」、少数政党の乱立と合従連衡による政権交代により、全く「政治的カオス」の状態でした。しかも、1998年の橋本内閣、これを継いだ小渕内閣では、衆参のねじれが生じました。
 政権与党として、金融危機回避のための施策を講じなければならない最も大事な時期(1997年、1998年)に、自民党政権はこの金融危機を乗り越える政治的な力を失っていたのです。
 なお、ご参考のため当時の目まぐるしく変化する政治状況を記しておきます。

・1993.8・・非自民8会派・細川内閣・55年体制の終焉
・1994.4・・非自民6会派・羽田内閣(2か月短命)
・1994.6・・自社さ・村山内閣(自社さ連立政権の発足)
・1996.1・・自社さ・橋本内閣→98年参院選でネジレ
・1998.7・・自民単独・小渕内閣→参院ネジレ
・1999.10・・自自公連立・小渕内閣→参院ネジレ解消

― 森幹事長の多数派工作 ―
〇98年7月小渕内閣が発足し、森喜朗氏は自民党幹事長に就任されます。小渕内閣の最大の政治課題は、金融危機回避のための関連法案を迅速に成立させることです。
 しかし、上記不安定な政治状況、特に参院のねじれのため金融改革法案の早期成立は困難です。そこで、森幹事長による各党に対する協力要請の交渉が始まります。
・小沢自由党党首、菅民主党代表に順次協力要請。
 森幹事長は、先ず自由党小沢党首に、ついで菅民主党代表にそれぞれ面会し、金融危機回避のために是非とも金融改革法案に協力してほしい旨、切々と訴えたそうです。
しかし、両者はまるで判で押したように「解散が先だ」「総選挙で自民党が勝ったら考えてやる」と解散・総選挙の実施を求め全然相手にしてもらなかった。森氏は、「この非常時に政局優先とは何事か」、「国家・国民のことを考えないのか」と大いに憤慨されたそうです。
・田中角栄元総理の話。「公明党は、政局よりも国民生活優先の党だ。国家・国民のために本当に困ったら公明党に相談しなさい」。「角先生」の遺言といっても良いくらいの有名な話ですね。
・森幹事長は、公明党の神崎代表、冬柴幹事長に「金融危機を回避できなければ、日本経済や国民生活が大変なことになる。是非とも、金融改革関連法案の成立に協力してほしい」と要請したところ、代表・幹事長共に即座に協力要請を承諾してくれた。
森氏は「流石公明党だ!これで日本は安心だ。」「今までに、こんなに嬉しいことはなかった」と大変感激したと後々まで語っておられました。

〇公明党が自民党に協力することにより、参院のねじれも解消し、金融改革法案は無事成立いたしました。
この法案の成立により、日本発の金融危機は回避されたのです。ミスター円と言われた経済評論家の榊原英資氏は、「あの時の公明党の決断で金融危機が回避された」と評価されていたことを記憶しています。

― 公明(孔明)には三顧の礼 ―
〇金融国会が終わっても、衆参のねじれは続いており、日本政治は未だ「政治的カオス」の中にあります。
殊に新進党の解党により、政党・会派の数が15〜16にもなり「俺は今、何党にいるかと、秘書に聞き」などと迷川柳まで飛び出す有様です。日本政治は、相変わらず不安定であり、「国家百年の大計」など到底望むべくもありません。

〇金融国会を通じて自公の信頼関係が醸成されました。森幹事長は小渕総理の命を受け、政治の安定のため自民党との連立を公明党に要請します。
 自民党側の交渉役としてこの衝に当たられた森幹事長は、公明党を諸葛亮孔明になぞらえて「私は公明を、三顧の礼をもってお迎えした」と述懐されておられました。
 自公の連立には多くの障害がありましたが、日本の政治の安定のためこれを乗り越え1999年10月5日、連立政権が発足致しました。

― 剛腕小沢氏の揺さぶりに耐えた自公連立 ―
〇連立10年の佳節を目前にした自公連立政権は、剛腕小沢一郎氏の大連立構想という奇策に揺さぶられます。
2007年10月20日と11月2日の2回、自民党の福田康夫党首と民主党代表小沢一郎氏の党首会談が持たれます。
自民党と民主党の「大連立構想」実現のための会談です。同年7月に行われた参院選で自公連立政権は、参議院で過半数の議席を失い、衆参のねじれ現象が起きました。そのため福田内閣は政権運営に大変苦しんでいました。

〇大連立構想は、政権運営に苦しんでいる福田内閣の足元を見透かすように突然提案されました。
森元総理の話によれば、党首会談で小沢氏は、大連立の前提として「公明党を連立から外せ」と福田総理に迫ったそうです。政権運営に苦しんでいる福田内閣の弱みを奇貨として、自分自身の政権与党入りと、何かと小うるさい公明党を政権から追い払おうと目論んだのでしょうね。
政権運営を執るか、公明党との連立の信義を優先するか、福田総理と自民党執行部の選択に掛かっています。公明党の「一番長い日」の始まりです。

〇しかし、小沢氏のこの目論見は、見事に失敗するのです。福田総理は、小沢氏の公明外しの提案を、「公明党には、金融国会で協力してもらった恩がある。恩を仇で返すことは出来ません」と断ったのです。連立10年の歴史の中で、自公の信頼関係がしっかり根付いていたのです。剛腕小沢氏には、人と人との信頼関係の絆が読めなかったのですね。
もっともこの大連立構想、小沢氏が民主党の臨時役員会に諮ったところ、小沢氏を除く全員の反対で立ち消えになってしまいました。泰山鳴動して・・・の感があります。しかし、このことで、自公の信頼関係が一段と深まったことは、言うまでもありません。
了 
2023年2月25日
元公明党国会対策委員長                   
弁護士 漆原 良夫